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プロダクトのもつエモさと作り手のエゴについて

プロダクトのもつエモさと作り手のエゴについて、深夜のプロダクト部門 Slack チャネル #product-first にて繰り広げられた議論を、ほぼ無編集で公開します。

  • kzk_ymd
    kzk_ymd

    "エモい"というのは、やはり CAMPFIRE における重要なひとつのピースで、それをいかにプロダクトで実現して外に伝達・共感を得るかは大切ではないかと。ふと思いました。

    そういえば、CAMPFIRE にジョインした4年前、当時のスタッフたちがエモいエモい言ってたのを思い出しました。

    100人近い規模になったいま、多様なエモさを掛け算すればすごいエモいパワーになるんじゃないかとおもいます。

    "すごいエモいパワー" は全く意味不明ですが、要はエモい = 心踊る、誰かの琴線に触れる、ワクワクする。

    そんなプロダクトをつくる、そこでエモいクラファンプロジェクトが生まれる、作り手のエモさも表現できる。

    じゃあどうやったらそれができるかを問うていければ嬉しいなぁとぼくは思います。

    ポエムはこちらからは以上です。

  • ieiri
    ieiri

    最近思うのはエモいプロダクトを作れる人、組織ってのは本当に少ないのだなということです。

    言語化・論理化できるものが強かった時代から、いかに言語で語れない感覚を持つのか、非論理なものを作れるのか、がすごく重要になってきている気がします。カオスを作り出せる人間が強い時代になる。それがエモさかと

  • kzk_ymd
    kzk_ymd

    確かに、言語や論理の範疇では語れない、収まりきらない何かの総体がカオスで、それに触れた誰かが喜びやクスクス笑いが起きる…といったことが重要と思います。が、昨今はそんなものに出会えていない気がします。

    (こう"エモさ"を言語化しようすると、うまく語りきれない自己矛盾におちいる感覚があるのもまたオツですが…)

  • kotarok
    kotarok

    エモさはプロダクトそのものが持つべきものでしょうか。私達が作っているプロダクトはプラットフォームです。

    エモさはそれを使うユーザーとユーザーの間で発生し、プラットフォームはそれを誘発する下支えであるべきではないでしょうか。

    プラットフォームは主役ではなく、そこで活動するユーザーが主役だと思います。

  • ieiri
    ieiri

    ふうむ

    プラットフォームは主役ではなく、そこで活動するユーザーが主役だと思います。

    例えば Apple プロダクトの持つエモさはなんだろうなあ

    手前味噌な話として聞き流してもらえると、ロリポップがうまくいったのはレンタルサーバーという本来下支えのサービスにエモさをいれたことなんだろうなと思っていて、これはその後無料サーバーや Dropbox や AWS が出てきてやばいかなーとも思ったがその後も伸び続けていて

    http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1701/28/news035.html

    エモさという曖昧な言葉で議論してるから良くない気がしてきた笑

    プラットフォームは主役ではない、ってのはその通りですね。

  • kotarok
    kotarok

    Apple は時期や製品によってそのエモさ、もとい、魅力の要素や持ち方が違うと思ってます。

  • ieiri
    ieiri

    どちらかというと「ユーザーの行動や感情をデザインする」ということに近いのかもしれません。そこには僕らのエゴもはいるでしょう

    「空気感」みたいなものかなあ、、もちっとかんがえよ

  • kotarok
    kotarok

    ロリポはまず安さという圧倒的な価値を提供したと思っています。

    そしてそれを最も魅力的に感じるターゲットによく届くコミュニケーション (エモさ) を行ってことによって新たな市場とブランドロイヤルティを生み出したのだと思います。

    完全な釈迦に説法すいません。

  • ieiri
    ieiri

    なるほどなるほど

    エモいドメインを最初からたくさん用意したんですよねー。色々思い出して懐かしくなってきた

  • kotarok
    kotarok

    僕も初めての自分の独自ドメインサイトはロリポップ & ムームーでしたからねw

    ペパボも初期アップルもそうですが、やはりユーザーをエンパワーするというのはめちゃめちゃスケーラビリティがあります。

    世界を変えるには自分たちがどんだけ強くなったり大きくなったりしてもダメで、結局自分たちのサービスの先にある多くのユーザーをエンパワーすることが必要なんだと思います。

    ここを全力で考える必要があり、そのためには自分たちのエゴやエモは忘れてもいいと思います。ユーザーにエゴやエモを思う存分出せる場を作りたい。

  • ieiri
    ieiri

    きっとね、思想に違いはなくて言葉が違うだけなんだとおもう

    ユーザーのために、という、「誰か」を思い設計するという行為は、そもそもとても独善的でエゴイスティックなものなんだと僕は思っています。

    そのエゴがいいエゴであるべきだと思うし、エゴによってユーザーに不便を強いたり行動を強制させるものであってはならない、そこは強く思う

    「人と人は絶対に分かり合えない」という前提に僕は常にたちます。たとえ親子でもね。

    その前提のもとに、「それでも自分が相手にしてあげたいこと、あげるべきこと」を問い続ける態度が大事だなと。それってとても独善的で一方的な行為なんですよね

  • kotarok
    kotarok

    そうですね、表現は逆ですが「分かり合える」という前提に立つのは違うと僕も思います。

    ですね。誰かにいいことをしてあげるというのが独善的だというのは本当に同意です。

  • ieiri
    ieiri

    例えばポルカの「検索は絶対に入れない」という思想を一つとっても、ここには僕らの思い描く、「優しい世界」というエモさのためのエゴが含まれるわけですね。

    ポルカと同じサービスを作ろうと思えばやる人がやれば3日で作れる。もっとお金かけられる会社もたくさんある。参入障壁が下がりきった現代で、ユーザーがなにをもとにプロダクトを選ぶかというと、そのプロダクトの裏にある「物語」「設計思想」などになってきてるように思うんです。

    値段や画素数、機能の多さだけでカメラを選ぶ時代から、そのカメラの思い描く世界、設計思想、作り手の思いで選ぶ時代になってきてるのではないかな、と。

    もちろんその大前提として「粗悪品ではないカメラである」ということがあるのも、もちろん当然の話。

  • kotarok
    kotarok

    はい、物語や思想がそのように機能するのは同意ですが、そこは選択肢が横並びになったときに理由として機能するんだと思っていて。ユーザーというか人間はある種残酷で「早い(速い)、安い、便利」に絶対流れるんですよね。これはまあ生物としては当然そうなると思います。深津くんも「怠惰の法則」と言ってましたね。

    あ、同じこと言ってた。

  • ieiri
    ieiri

    そうですねそうですね

    全てのテクノロジーは感情やコミュニケーションのコストを下げる目的で進化してるのだと思っています

    それを言葉を変えれば人間は怠惰になりたがっている、ということなのかもしれない

  • kotarok
    kotarok

    進化という言葉がまさにぴったりで、個々のテクノロジーは色んな方向を向いて生まれてくるんだと思いますが、そこにユーザーの選択という淘汰圧が加わって自然選択が行われた結果がそのように表出するんでしょうね。

  • ieiri
    ieiri

    話が変わりますが、例えば「スローフード」なんて運動がありますが、日本ではファッション的に消費されてしまいましたがこれって本当は「自分たちの地域を自分たちで守る」ってことなんですよね。持続可能性の重要さに人間は気づきつつある

    これは「安い早い便利」を追求し続けることへのカウンターなんですよね。このままだと世界はダメになってしまう、と。

    僕はこの両方の視点を常に持ち続けるべきである、と常々思います。会社経営者としても、プロダクトを作る側としても。極論に振り切るのは楽だが、大事なことはその両極の間にグラデーションのように存在する。

    、、、といったような答えの出ないものをプラットフォーマー自身が問い続ける「態度」、これこそが「エモさ」の正体なのかもしれません(まとめに入ろうとしてるな、、)

  • kotarok
    kotarok

    うーむ。僕はそのへん(スローフード、サスティナビリティ)はまた違う意見を持ってるかもしれないです。どこまでを所与の条件とするか、また最適化を考慮すべきスコープをどこまでとするかで話は変わってくるところがあるのかな、と。

  • ieiri
    ieiri

    確かに

  • kotarok
    kotarok

    正直、前職の癖もあって僕はスコープを広く捉えがちで、グローバルレベルでの最適化という、ある意味で極論を考えがちなんですが

    おっしゃるように僕達が今答えを出すべき問の正解はグラデーションのどこかにあるので

    僕が今身に着けなければいけないのはまさにそのグラデーションに対する解像度と選択眼だと思っています。課題意識感じてます。学びます。

    ということでエモく考えることはやめずにみんなでお互いに問い続けたいとおもいます!! (まとめに入ろうとしている)

  • ieiri
    ieiri

    僕も色々と学ばせてください。こういう議論は好きです。

    言語化できない、自分たちの感覚的なもの(何と無く好き、嫌い、気持ち悪い、気持ち良い、など)をもっと自分たち自身でも信じていいのだ、とよく思います。自分の感覚を疑ってしまう人や自信がない人がとても多い世界だと感じます。もちろんその感覚によってユーザーに不便をわざと強いたりする設計とかは無しです。それはうんこです。

    リクルート江副さんの「自ら機会を作り、その機会で自らを変える」という言葉をよく思い出します。プラットフォームもそうでありたいな、と。「自らプラットフォームを作り、そのプラットフォームで自らを変える」と。僕らはプラットフォーム提供者であると同時に、僕らもまたそのプラットフォームの住人なのである。

    ここら辺の感覚はそう相違ないと思っています。多分だけどね。

    プラットフォームとは下支えであり裏方である、それは事実。だけど、僕ら自身もそのプラットフォームの上の住人でもある。そうあるべきだと思ってるし、そうありたいと思っているし、もしそうでなければ、とても、悲しいことだと思います。

  • kotarok
    kotarok

    そうありたいのはまったく同意ですし、CAMPFIRE のサービスについて言えば僕達自身がプラットフォームの住人であるのはまったくそうですし、住人であることが嬉しい、住人でいつづけたいサービスを提供しようと思います。

    ただここからはデザイナーという仕事の専門性になってきますが、何かをデザインするときに、すべてを自分ごと化できれば最高なのですが、それは先程家入さんも書いていたように「実は他人とは分かり合えない」という壁があります。

    義足をデザインするときに足を切り落としてしまったら次に靴のデザインができなくなってしまいます。なので所詮は他人のためにデザインせざるを得ないというのはデザイナーの悲しい宿命なのだと思っています。まして多くの人のためにデザインしようと思ったら、誰か一人になりきること自体も正解ではなくなってしまいます。そこを埋めるのは真摯なリサーチと知識に基づいた想像力(思考の正体としては推論)を使うしかないと思っています。 (edited)

    まとまりかけたのにまた話広げてしまった。

  • ieiri
    ieiri

    w

  • kotarok
    kotarok

    すいませんw。でも色々改めて考えたり確認できたりしました!

  • ieiri
    ieiri

    (自論ですが)デザインとは課題解決であり、アートとは問題提起である、と思ってたりします(もちろん全てがそうではないけど)

    もしかしたら僕は、その間をなんか表現したくてずっと、起業したりサービス立ち上げたりリバ邸とかやったりしてるのかもしれないな、とよく思います。

    誰かのため、社会のため、足のない方のため、課題解決のために、デザインをする。と同時に、

    今の社会は優しくないと思いませんか、お金ってこういうものだと決めつけてませんか、コミュニケーションてもっと自由でよくないですか、と問題提起(社会という池に石を投げ込み波紋を起こす)をし続ける。

    デザイン的に、アート的に、プラットフォームを作りたい、この「アート的」なところをこねくり回して「エモさ」と呼んでるのかもしれません。

    また色々話しましょう。

    なんかこういうやりとりをしてると、自分自身にも見えてないところがぼんやりとわかってきてとても良いです。

  • kotarok
    kotarok

    デザインとアートの解釈、ほぼ同じです。近年の個人的な悩みとしてデザイン的思考しすぎた結果、アート脳がしぼんできたのが自分でもわかるくらいでヤバイと思ってるんですが、僕的解釈としては家入さんはアーティストなので、これは良いシナジーしか生まれない! と前向きに解釈します。グラデーションの何処かに正解を見つけるか、またはそんなものはなく探り続けるしかないのか。

    ぜひまたお話させてください

  • ieiri
    ieiri

    ですね!自分でもアート的な感覚に寄りすぎているところは認めつつも、「アートだから」の一言で収める暴力的なやり方は好きではありませんので、きっとみんなともこうやって対話してくのが大事なんだと信じています

    またお話ししましょう。